カテゴリ:思い出ぽろり( 40 )

雪癖

雪癖なんて言葉があるかどうかしらないけれど、
一度降ると、続けて降りだすことがよくあるような気がすします。
関東地方は先日降った雪の翌日にも続いて雪が降りました。
にわか雪があるかもしれないという天気予報は出ていたけれど
夕方には夕陽も顔をだしていたので、
台所の窓にひらひらと舞う雪の影を見た時は唐突な感じがして驚きました。

外を見ると前夜にも増して激しく舞う雪。
見る間に隣の畑の雪が融けたばかりの土の上にまた雪が降り
白く上書きされていきます。

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雪の少ない地方だからか、雪の降った日にあった出来事や
雪降る町に行った時の記憶は印象深く刻まれているものもあり、
雪の降る様と一緒に記憶の一ページに記されています。

小さな頃、まだ小学校にあがる前の冬に父と一緒にでかけた札幌。
祖父母の家に一週間ほど滞在し、今日帰るという日に大雪になりました。
その頃祖父母の家はまだ北大の近くの古い二階建ての家で
私はその家が大好きでした。
もう帰らなければならい名残惜しさに通りに向かう部屋から窓の外を見ていました。
後から後から舞ってくる雪は大きなぼたん雪、
真冬の粉雪じゃなかったので、春も近い頃だったのかもしれません。
大きなひとひらひとひらが、
灰色の空から後から後から舞い降りてくる様子は今も目に見えるようです。
その後函館で吹雪に見舞われ、連絡船がとまって足止めになり
湯の川に一泊しました。
よほどの大雪だったのでしょう、
初めて遭った吹雪、タイツの足に当たる雪が痛くて泣き出し
父が街角の建物を風除けにしてズボンをはかせてくれたことを憶えています。

そして初めての大恋愛をした23歳の頃、
雪が降ってるね、そんな他愛ないことが言いたくて恋人にかけた電話に
うん、降ったね、じゃあ会おうか、と思いがけないデートになったことがありました。
喫茶店でおしゃべりしているうちにすごい雪になってきて
帰れなくなりそうなほど積もっていました。
でもなんか嬉しかった突然の雪とデート。

それから数年後、ずっと一緒にいたいと思う人に出逢いました。
そして結婚が決まり、
父と結婚の準備で家具を見に行った日も雪でした。
結婚前後のこのあたりのことは手帳にこまごまと記されているのですが
書き始めがちょうど立春からになっています。

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その数日後、私の中に芽生えていた小さな命を断った日の前夜も雪でした。
このあたりの心の葛藤も言葉少なに記してあります。
そしてそれからひと月と少し、三月の末に
風に舞う雪の中、父の背中をみながら歩いたのです。


降りしきる春の雪の中
父と二人で家具を見に行った。
白く白く雪は風に流され
父の背中と、雪に残る足跡をみながら歩いた・・

二月のことも、どこかにまだ色濃く残り
父と歩いた日のことは手帳に三ページにわたって書かれていました。

手帳をみるとこの年も何度か雪が降ったみたい、
雪癖ってやっぱりあるのかもしれないと思います。

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今日もまた絹ちゃんと東京タワーの見えるお寺まで行ってきます。
今週はぽかぽかの陽ざしの日もあるとか。
今日も暖かくなりそうです、
いつもの梅も開いているかもしれません。
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by kisaragi87 | 2010-02-08 08:48 | 思い出ぽろり

母を送った日のことなど

映画「おくりびと」の記事が友達のところにあり、
そこにコメントしながら、母のなくなった時のことを思い返していました。
母のなくなった時のことはよく憶えているのだけど
納棺の時のことが抜け落ちていますと書いたけれど
よくよく記憶をたどると、かなりの部分忘れておぼろになっていることがわかります。
おくりびと、心にしみるとてもいい作品ですが
ここでは映画の感想ではなく、
これからもっと曖昧に形を変えていくのかもしれない母を送った日のことを
思い出すままに書いてみました。

入院してたった4日で逝ってしまった母の死の時は
物心両面で何の準備も心構えもできていませんでした。
ぽっかりと深い穴のあいたような心は、今目の前でしなくてはならないことに追われ、
最期の時に母にすがって泣いてからは涙もピタと栓をされたようにとまり、
母の死を実感して悲しむゆとりすらありませんでした。

近所の人や職場の仲間が次々と訪れる仮通夜の夜、
亡骸となった母はとっても遠くにいるようだったけど、
布団の中にはまだほのかなぬくもりが残り、
少しずつ冷たくなっていく体温を何度か確かめるために
そっと母の寝巻きごしに布団に手を入れた記憶があります。
母の顔のそばに添い寝のように顔をよせてみたと思ったのは
後付の記憶なのかわかりません。

母をみて、みんなはきれいな顔と言ってくれたけど
少し半開きになってしまったままの口元がどうしても納得できず
こんなんじゃないと、母が可哀想になり、
この口元がなんとかならないものかと、何度も思ったような気がします。
そこにいる亡骸はもう私に笑いかけてもくれなければ抱いてもくれず
どんどん固く冷たくなって、ますます私から遠ざかっていくようでした。

あらかた訪れた人が帰ったあとは
母の親友のおばさんが母のそばに敷いた布団に一緒に入って寝てくれました。
父がどこにいたのか、祖母がどうしていたのか、
叔父や叔母が残っていてくれたのか、思い出せず
なぜかその親友だったおばさんと一緒に寝たことだけをおぼえています。

翌日はお寺での通夜のため午後に車で母を運ぶ手はずができていたはず。
私は喪服も持っていなかったので葬儀の時は着物を借りるように叔母に言われたけれど
それまでの移動や帰り用にと喪服がいるということになりました。
母か叔母のものでもよかったろうに
なぜかその忙しい最中、池袋のデパートまで買いに行ったのです。
それというのも私の親友絹ちゃんが従姉妹がデパートにいるから
喪服も安く買えるはずと付き添ってくれると言い、
それならと父や叔母が行ってきなさいと言ったのだったと思います。

絹ちゃんと電車の一番後ろの車両にのって窓から線路を見たような気がします。
絹ちゃんが色んな話をして慰めてくれたような気もします。

急いで帰ってくると叔母が中から
待ってたのよ!もうお棺をとじちゃうから、急いでと玄関に走ってきました。
そう言われて、ワッとこの時だけ泣きました。
もう冷たい亡骸となった母はそこにいるわけじゃないのを百も承知なのに、
だめ、行っちゃだめ。
そんな身も世もない気持ちになって泣きました。
たぶんそれが初七日までにただ一度泣いた時だったと思います。

ここの記憶をたどってみると
結局私は納棺の時に、そこにはいなかったのじゃないかということ。
デパートから帰ったときは、母はすでにお棺におさまっており、
あとは蓋を閉じるばかりになっていたと思うのです。
要するに映画おくりびとで一番心をこめてするひとつひとつの手順のところは
喪服を買いに行っていた私は飛ばしてしまっているのです。

お寺についてからは、遠くの親族も訪れ
母のお客さんやら、仕事関係の方々、
それは大勢の方と一緒の式となり、私は気を張るばかりで
涙ひとつこぼれませんでした。
気を張っているからだとわかってはいても
母の葬儀に涙もこぼれないそんな自分をとても悲しく思いました。

火葬場のことは憶えていません。
東京タワーが小さく見えるお寺から、また車で移動し、
たぶん目黒にあった火葬場だったように思います。
もう煙になってしまった母に、
亡骸がそこにないことにかえって安堵したような気もしますが
その時の心情はおぼろです。
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それよりも印象に強く残っているのはお骨になった母をもって
父と一緒に家路についた車の中のこと。
高級なハイヤーだったのか、その車はベンツでした。
なんでそんな車に乗ったのか、
そして祖母がどうしていなかったのかはまったく記憶にないのだけど
生まれて初めて乗るベンツの乗心地の良さは夢のようでした。

首都高をすべるように走るベンツに乗りながら私は遺影を抱いていました。
隣にはお骨を抱いた父。
あまりの座席シートの居心地のよさに、
このままずっと、どこまでもどこまでもこの車に乗っていられたらいいのにと思いました。
父と母のお骨と私。
疲れも手伝ってか、そのままシートに沈んでいってしまいたいほど心地よかったこと、
ただそれだけをくっきりとおぼえています。
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by kisaragi87 | 2010-01-27 11:20 | 思い出ぽろり

賛美歌の中の恋

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母が大切にしていた讃美歌集
友達からクリスマスに贈られたという宝物。
以前にも記事にしたことがあったけど、色あせたブックカバーが過ぎた年月を物語っているようです。

この母の宝物の中に、実はもうひとつ宝物が入っていたのです。
数枚の写真と、小さな走り書き。
私がまだ10代の頃、この写真の人は誰?と訊いた記憶があります。
戦争に行ってしまった昔の友達よ。
そう答えた母。

当時の私はそれで納得したのでしょうが、
母がなくなり、しまったままにしてあった写真をふたたび見た時、
それは特別な写真なのだとはっきりわかりました。

信子とはいみじくつけし・・・

母の名前で始まる言葉は、一編の詩のよう。
そして写真の裏には

とうとう写した僕の初めての写真です。

そう書かれてあります。
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この人は戦争から帰ってこられたのだろうか、
もしそうなら母の人生の選択は変わっていたのだろうか。
まだ二十歳前の身も心もやわらかな乙女だった頃の母を想ってみます。
歌集にはさまれたままだったその写真を
ひとり開いてみる時もあったのかもしれません。
青年ははじめての写真に少し緊張したように背筋を伸ばして立っています。

ここを父が開くことはないと思ったのかな、
讃美歌集にはさんだ母が、愛おしく微笑ましく思えました。
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by kisaragi87 | 2010-01-25 07:38 | 思い出ぽろり

情けないラブレター

年明けから今まで聞き流してばかりだったNHKのラジオ講座「まいにち中国語」を
テキストを買って始めてみています。
うっかりきき忘れもあるけど、一日に二度の再放送もあるので、そこは気楽に考えて。

で、今までのまとめを何かノートにとリビングの引き出しをごそごそしたら古い便箋がひとつ。
そっか、年末の畳替えのときに和室の本棚を整理したとき出てきた便箋、
昔のノート類にまざって出てきたのだけど
メモにしてもとリビングの引き出しに入れておいたものでした。
これでもいいやとパラパラめくると
暮れにはバタバタしていたせいかぜんぜん気づかずにいたのに
最後のところに三枚だけ何か書かれていたのです。
読んでびっくり。

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それはちょうど就職が決まったばかりの二十歳の時、
まだ正式入社前の職場の小さな部屋で留守番をしながら書かれた手紙でした。
日付は2月21日、午後5時35分とあります。

私の就職先は年若い社長がひとりで小さな出版社を立ち上げるに際して
スタート当時、たったひとりの社員として採用されたところ。
当時のことは今までにも何度か書いてきたのですが
読み返してみると、それは楽しかった思い出ばかり。
ところが手紙を読むと就職当時の複雑な気持ちが書かれ
ずいぶん忘れていたことがあったのだと気づかされます。

手紙は専門学校当時付き合っていたボーイフレンド宛てのもの、
彼はまだ大学生で
先に社会人になってしまう私と微妙にすれ違いが出てきた頃でした。
書かれている文面からは、
都会の中の忘れられそうな小さな4畳半にひとり留守番している寂しさとともに、
こんな場所で社会に取り残されていってしまうかもしれないという不安や、
ほんとうにここに就職しても大丈夫なのだろうかという迷いが感じられます。
そして何よりしばらく会えていない不満が綴られ
卒業制作のことや、もうじき卒業式だとか、
就職祝いをくれる約束だったよねなどと、とりとめもなく続きます。

それにしてもなんとも色気のない手紙。
私が男の子だったら、途中で読むのをやめてしまうかもしれないような代物で、
まだ恋とも呼べないようなそんな頃に、
でも恋しくて不安で書いた手紙はあまりに情けないものでした。
もちろんこれは下書きだと思われ、
たぶん机にあった仕事用の便箋に暇をもてまして書いたものなのでしょう。
そんな様子は乱暴な筆跡からもわかるのですが
逆に思いのままにいっきに書いたようにも読み取れます。
結局この手紙は可愛い便箋にでも清書して出したのか、
それとも出さないままお蔵入りとなったのかまったく記憶にありません。
やがて春からは正式に社会人となり覚えなくてはならないことに追われる日々が始まり
いつしかその人とも自然消滅してしまいました。
いずれにしてもこんな辛気臭いラブレターじゃ、なんの役にも立たなかったでしょう。

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ちょうど成人式もあったりで、
自分の二十歳の頃のことを何か書いてみようかとあれこれ記憶をたぐっていた矢先。
あまりに偶然にも出てきたその手紙を見た時は少しぞくっとしました。
憶えているようで忘れていた二十歳の日々、
何かがこの手紙に私を呼び寄せてくれたような気もします。
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by kisaragi87 | 2010-01-13 18:55 | 思い出ぽろり

霜月つれづれ

霜月の夜長、山盛り届いていた内職も片付けて、
今夜はみんな遅帰り。
たまのひとりの夜を満喫しつつ、
やれやれと美味しいお酒をちょっぴりいただきながら、昔々のお話でもしましょう。

夫と出会う前に結婚すると思っていた人とつきあっていたころ、
デートを始めてじきに、
どうしても前から行ってみたかったところがあるんだ、でもひとりじゃ入りずらかったから。
そう言われて連れていかれたのが、ジャズのきけるスナック。
ジャズバーとか、ジャズ喫茶というのはあっても、
ジャズスナックというのはあるのだろうか。
でも、そんな呼び方が似合う小さなカウンターと、テーブルが3つくらいのこじんまりとした店、
恋人と私のいる町のちょうど中間にある小さな駅のそばにありました。

カウンターの中にはその時の自分よりたぶん10歳くらい年上だろうと思われる
30代半ばくらいの女性がひとりいました。
気さくでほがらか、笑顔がかわいくて、今でいうなら女優の小林聡美似。
何度か通ううちにジャスをききたいお客さんのじゃまにはならないほどの会話を交わすようになっていました。

お客さんは、中年のおじさんが多かったような、
でもみんなジャズが好きで、そこでお酒をのみながら、簡単な食事もできる、
東京のおしゃれなバーとは違うけれど、
仕事帰りに赤ちょうちんに寄るみたいに、
ふらっと気軽に寄れるジャズ好きのためのお店という感じでした。

(文化祭の帰りに遭遇した、色だけ昔々の復刻版の山手線です、走っているのは一台きり)

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すっかり顔なじみになった頃、彼が出向で少し離れた都市に一人暮らしになり
遠距離恋愛といえばちょっとロマンチックだけど、会う機会はかなり減ってしまいました。
デートのないウィークデイの夜、まっすぐに帰るのがなんとなく気が進まない時に
思い切って初めてひとりでお店に行ってみました。

ひとりでカウンターに座ると、
「あら、ひとりなんてめずらしいよね、待ち合わせ?」
そう訊かれたので、違うと答えると、びっくりしたように目を丸くされたけれど
この頃ちっとも会えないことや、まっすぐに帰りたくないことなんかをぽろっと話したら、
そっかそっかという顔で話し相手になってくれたのです。
そんなことがあってから、父と祖母の待つ家にまっすぐ帰るのが気の重い日は、
ごめんね、と心の中でつぶやいて、
足はそのお店に向かってしまうこともありました。
そこはひとときの異空間でした。

私はけしてジャズに詳しいわけじゃないけれど
二十歳になってすぐにたまたま初めて買ったのがヘレン・メリルのLP。
彼女のスモーキーな声とサックスやトランペットの音色に惹かれ
それからは、ちょっときいていいなと思った曲や歌い手のレコードも
ポツポツと買うようになりました。
またジャズにかかわらず好きと思った音楽は手当たり次第という感じで、
女性ヴォーカルに夢中になった時代もあり、
キャロル・キング、リンダ・ロンシュタット、カーラ・ボノフなどもよくききました。


ひとりで時々通ううちにすっかり打ち解け
お店の忙しいときはカウンターの中に入って手伝ったり、
ママが足りないものを買い物に行くときは、
ひとりでカウンターの中でお客さんの相手をしたこともありました。

「カティーサークをダブルで」
ある小説に出てくる私の憧れたフレーズ。
でも、ついにこの注文はできないまま
結局それから一年もしないうちに恋人とも別れ、
思い出の店からも足が遠のいてしまいました。

あの店はあれからどうなっているのだろうと、たまに思うことがあります。
とっくの昔になくなっているような気もするし、
もしかしたら、60代になったママが
いい感じに歳をかさねてカウンターの中に今もいるのかもしれません。

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秋が深まり、ジャズをきくと、
あのころの自分や、家で待っていた父や祖母とセットになってあの店を思い出すのです。
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by kisaragi87 | 2009-11-06 21:10 | 思い出ぽろり

さよならさんかく

まるちゃんのところで懐かしい言葉遊びが書かれていました。

さよなら三角 また来て四角
四角は豆腐 豆腐は白い
白いはウサギ ウサギは跳ねる・・


そう続く数え歌のような、しりとりのような言葉遊び、
子どもたちがさよならの時に言ったのであろうこの言葉ですが
私の場合は友達とのさよならの場面ではあまり使ったことがなかったような。

じゃなんで懐かしかったかというと、
小学生の頃に買ってもらった漫画雑誌「りぼん」によく連載してた
漫画家の巴里夫さんの描いた「さよならさんかく」に出てきたから。
その調子よくつながっていく言葉が面白くて、いちどで覚えてしまいました。
初めて買ってもらった漫画雑誌がこのりぼんで
ここにも思い出とエピソードがあるのですが、それはまたいつか。
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そして、この言葉遊びのように、さよならさんかくで思い出したのが
母のおむすび。
うちのおむすびは、いつも少し平らな丸だったのです。
友達のきれいに三角ににぎられたおむすびを見ながら
なんでうちのおむすびは丸いんだろう・・そんなことを思ったこともあったけど
私もいつしか母譲りの丸いおむすびを作るようになっていました。

実はこの丸いおむすびにはエピソードがあって
結婚したばかりの両親は一度おむすびのことで大喧嘩をしたそうなのです、
それはそれぞれが今まで食べてきたお結びの形から。
どうやら父方の祖母が作るのが丸くて、母方は三角。
最初どちらもゆずらず、揉めにもめたとか(笑)
で、結局頑としてきかない父に根負けして折れたのが母だったのです。

幼い頃から母のおにぎりといえば丸かったので
てっきりそれが母がずっと慣れ親しんできたおにぎりだとばかり思っていたのですが
後から笑い話のように両親からきいた話では、そんな経緯があったというわけです。

母にしたら、自分の作り方を変えるのは抵抗があったかもしれないけれど
いつしか母の手の丸みにそった形になって私にうけつがれました。

私の場合は子供のお弁当に入れるようになってから、
どうも三角のほうが納まりがいいときがあって
それ以来三角も作るようになっています。
だけど友達にも、よくそんなにきれいに丸く作れるねと言われるほど
丸い形がなじんでいるので、三角も最初なかなかうまく作れなくて
今もどこか丸みをおびた三角になってしまいます。

母も最初三角から丸へ変えた頃は、さよならさんかく、なんて思ったのかな。
芋づる式の思い出をもう一丁でした^^
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by kisaragi87 | 2009-10-24 11:22 | 思い出ぽろり

ホネケーキ

友達から今話題の洗顔石鹸をもらいました。「茶のしずく」というもの。
ネットに入れてふわふわの泡を作って洗顔するもの、
お茶の香りがして、なかなかいい感じ、
だけど結構値が張るのでなくなったら自分では買わないかもしれないな。

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洗顔石鹸というと一番に思い出すのが資生堂のホネケーキ。
のせのせ上手なわんちゃんが喜びそうな名前だけど
骨ケーキではありません(笑)
わかりやすくいえばハニーケーキ、honey cakeハチミツケーキ。
なにやら美味しそうだけど、ハチミツ成分入りで固めた石鹸というような意味があるらしい。

私が小学生の頃からわが家の台所にはこのホネケーキがありました。
昭和40年代、当時は洗面所なんてしゃれたものはなくて
台所の流しで歯磨きしたり、顔を洗ったり。
家族の歯ブラシも流しのオタマの横にかけてあったり。
その流しに渡した網だったかな、その上に
場違いのようにきれいなルビー色に透きとおった石鹸がひとつ置いてありました。
朝日が入る台所ではその色も明るく冴えて、
タイル貼りの流しの横でなんだかその石鹸だけ特別のような存在感。

それが小さくなってくると近所の化粧品屋さんによくお使いに行かされたものです、
化粧品屋のおばちゃんも、私が行くと、ああいつものあれねって顔して
ホネケーキ?ってきいてくれました。

買ってきたばかりのおろしたては、
いちだんと香りがよくて、目の前にかざしてルビー色の向こう側を透かしてみたり。
そういえば母の小さな三面鏡の下にも、きれいな透きとおった液体の入った小瓶がいくつか並んでいてそれも私の憧れでした。
そして母にも、そんな化粧品や、石鹸は思い入れとこだわりのあるものだったのです。

というのも母は小さな化粧品店を営んでいた時があったから。
それは私が生まれる前、
結婚して7、8年くらいたった頃だったのでしょうか
当時両親が住んでいた東京の板橋というところに出したお店でした。

父のところにある古いアルバムには
お店のカウンターの向こうに嬉しそうに笑う和服姿の母の写真が一枚だけ残っています。
その頃お店番というか看板娘をしていたのが愛犬エス。
サモエドという犬種の大きな子だったそうですが
今なら文句を言われそうだけど、リードもつけずに店にいて
父が帰ってくる気配を感じると、
店の向こうの角まで走っていってお帰りなさいをしたそうです。
父は今も可愛くてしかたなかったそのエスの思い出話をするくらい
両親に愛され、また両親を慕ってくれた愛犬でした。

母にとってその店を出すことが夢だったのかどうかはわからないし
その後なぜ店をたたんだのか、
経営がうまくいかなかったのか、それとも私ができて大事をとってたたんだのか
それも父にきいたことはないのですが
店に立つ母の写真はとても嬉しそうで、
それはそれで穏やかな日々だったような気がします。

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父の洗面台の横には今もホネケーキが置いてあるはず、
今もあの時と変わらない香りがするのでしょうか。
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by kisaragi87 | 2009-10-22 07:58 | 思い出ぽろり

夢で逢えたら

私がアルバイトを始めたのは専門学校に通い始めてから。
両親もいちばん大変な頃だったから
学費以外のお小遣いや、旅行の費用くらいは自分でなんとかせねばと
駅前の本屋さんでアルバイトを始めました。
小さな本屋だったけど、立地がいいことや、今のようにネットもない時代、
勤め帰りのサラリーマンや、学生でけっこうお店はにぎわっていました。

店番はアルバイト一人だけというのが定番。
大変だったけれど、案外自分の好きにできるという気楽さもあって、
友達が寄れば、ちょっとおしゃべりしていったり、
雨の降る夜は、お客さんの引ける時間も早く、
有線から流れる、「サウスポー」や、「夢想花」「飛んでイスタンブール」
そんな当時の流行歌をききながら
駅前のタクシーの往来で光る車道をぼんやり見たり、本のページをめくったり。

この頃は、ジャンルを問わず音楽を聴くのが大好きで
アルバイト代をためていちばんに買ったのが
オーディオのセットとFM専用のチューナーでした。
今はAM放送も、FM放送もそれほど大きな差はなくなってきたような気もしますが
当時は音楽をきくならFMできいてみたいという憧れがありました。

真新しいチューナーでその頃楽しみにしていたのが
FM東京土曜の午後の、邦楽と洋楽のベストテン、
各一時間ずつたっぷり時間をとって音楽が楽しめました。
午後二時からのDIATONE ポップスベストテンのパーソナリティーは
当時シリア・ポール。
今回はじめて知ったのだけど、数々の人にカバーされている大瀧詠一の作ったこの曲
実は彼女がいちばん最初に歌っていたとか。
昨日友達のブログにコメントしながら、こんな懐かしい時代を思い出しました。


そのFMチューナー、処分できずにまだとってあります。

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by kisaragi87 | 2009-09-15 07:34 | 思い出ぽろり

四万六千日

今日は浅草寺の四万六千日、そして、ほおずき市。
母は毎年この日に浅草の観音さまにお参りをしていました。
仕事の合い間に足をのばしてくるのでしょう、
帰ってきてからその話をしてくれることもありました。

この日に一日参れば、四万六千日分お参りしたことになるとか、
毎年参ればいったい何年分になることやら、はぁ~。

観音さまに手を合わせ、母はいったい何を願っていたのでしょう、
そんなことをただただ、季節の行事のように愛してきたのかもしれないし、
のっぴきならない願掛けをしたいたのかもしれない。

裸電球の灯りに赤いほおづきがゆれる参道を歩きながら雑踏をいけば、
あの日の母もみつかりそうな気がします。

そういえば、冬至にも一陽来復のお札を毎年もらってきていたっけ。
よくよくそんなことが好きなのか、
私もまたそんな風物詩のような行事が大好きなのに、
母がなくなってから30年近く、
いまだかつて一度も、四万六千日も一陽来復もでかけたことがありません。
なんでだろう。

今日は週末金曜日、
今年こそは浅草に行ってほおずきの縁日をみてみたいなあ
仕事を終えてから行ってみようかと思ったりもしたのだけど、
今週は七夕前夜祭もあったし、
昨日は中国語だったし
そうそう家もあけられないやと、足を運ぶのをやめました。
けっきょく今年もいかずじまい。
それでいいのかもしれないな。


仕事からもどる途中、テンツクテンテンと、笛や太鼓の音、
近所の保育園が夏祭りの夕涼み会をしていました。

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数日来の強い風もやんで
おだやかな夕空には雲。
太鼓や笛の音が心地よくひびいていました。
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by kisaragi87 | 2009-07-10 20:26 | 思い出ぽろり

6月4日木曜日

6月4日、木曜日。
夕暮れ時、夕食の仕度をすませて中国語講座に向かう頃の空はおだやかでした。
ずっとずっと前のこの日の、こんな時間に母はなくなりました。

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今年はちょうどその29年前と同じ木曜日。
最後まで枕元に残ったままだった母の好物のメロンを今年も母の写真の前にそなえながら
いろいろなことを思い出していました。

私はこれまでずいぶんたくさん母のことをここに書いてきました。
なぜここに何度もくりかえし母のことを書くのか、考えてみたこともありました。

母のことをやさしい気持ちで思いだせるようになったのは
なくなってから何年もたってから。
なくなった当初は、その事実が受け入れられず、
また苦しんだ最期、なにひとつきけなかった言葉
そんなもろもろが重なって思い出すのは胸がつぶれるようなことばかり。
あたたかな母のことを思い出す夢もひとつも見れず
ただ苦しむ母のことばかりが夢にでてきました。

たった4日の入院で逝ってしまった母とは、
別れの言葉ひとつ交わすこともできませんでした。
ずっと諍いの絶えなかった父と祖母を残したまま
かき消すように逝ってしまった母とは、未消化のことがいっぱいあり
どうして?なぜ?とききたいこともたくさんありました。



それでも時間という薬が少しずつ私の心をおだやかに変えてくれ、
いつしか母との時間を愛おしく思い出すことができるようになっていました。

そしてここに想い出を書くようになり
少しずつ母の、父の、祖母のそれぞれの気持ちも
理解できるようになってきたのです。
ほんとうに不思議。
こんな歳になって、しかも母がなくなってからもう29年、
いったいいつまでと思いつつも、
私にとってはこうやって書くことでひとつひとつ癒されていくような気もします。
そして母のことを書く私はいつも21歳のころのままです。


先日のお宝発掘のときに実は母がなくなって一週間の頃に書いた日記をみつけました。
夢日記の裏表紙にたった一日だけ、
母のことを恋しく想い書かれたものは、それきりでした。
ちょうど亡くなって一週間は張りつめた気持ちのまま泣くことも忘れていた頃
なんとか母の代わりをと思いつめていたけれど
きっとこのメモ書きのような日記の頃からいっきに寂しさがおしよせてきたのだと思います。
母の祥月命日を前にみつかったのも何かの縁、
ここにそれを転記しておこうと思います。
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6月12日

おかあさんが亡くなってから、一週間がすぎました。
関東地方はきのうが梅雨入り
今日はその予報に合わせたような
静かでやさしくて、さみしい雨が降っています。

しとしと しとしと
いつになく今年は紫陽花の花がみごとに咲いて
庭の草花も雨にうたれては、ゆらゆらゆれています。

このみごとな紫陽花一目見せてあげたかった。
おかあさん見ていますか、
おかあさん、おかあさん、何度呼んでももうこたえてはくれない。

あなたの匂いが、すがたがまだ沁みついているこの家は
太陽がなくなってしまったようです。
お母さんって不思議な人、
そこにいてくれるだけで、みんなの心がやすらぎあたたかくなる。

もう、もう、ぜったいにあえないの?
「ただいま」って帰ってこないの?

いくらひとりでがんばってみても
おかあさんにはなれない。

まだまだお母さんと一緒にしたいことが山ほどあった。
でもお母さんのあったかい愛情は忘れません。
あのあったかい背中に顔をよせていると、何もこわいものなどなかった、
あの小さな手にふれていると、心の中までやさしさがあふれてきた。
まだまだそばにいてくれると思っていたよ。

どうしたってさみしい、
でもどうしようもない。
悲しくてさみしくてつらいのは私ひとりじゃない
この広い世の中に私以上につらい人はたくさんいるのに
やっぱりさみしい。

世界中さがしたって私のお母さんはひとりきり、
そしてその一人きりのお母さんは、もういない。



誰に見せるわけでもなく書いたものだから拙く、思うままで恥ずかしいけれど
今でもこの21歳の時と同じような気持ちになる日がまだあります。

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今、友達からかりた「悼む人」を読んでいます。
途中までは淡々と読んでいたのですが
ちょうど半ばくらいまで読みすすみ、急に胸にせまってくるようになりました。
4日の朝にも、枕もとに置いてある本のページをめくりながら
心に残っている箇所を拾い読みしているうちに、
涙があふれてきました。
まだ途中、少しずつ読み進んでいるところです。

幼い子どもじゃあるまいし、いつまで母のことをとも思ったのですが
私にとっての特別な月、二月と六月には、やはりここに記しておこうと思いました。



それから、ちょっとうれしい報告です、
みなさんから応援していただいた父との北海道行きの話。
先週火曜日の夕方に急に父から
「北海道やっぱり行くことにしたからよろしく」
と言われました。

仕事を終えて買い物をしてから、父のところに
「お母さんのところに紫陽花をあげたいから、花きりばさみ貸して」
と寄ったときに、この言葉。
思いがけなく、あっけなくの展開、でもほんとうにうれしかったです。
善は急げだけど、今月は私がどうしても仕事を休みずらいので
たぶん来月中にでかけることになりそうです。
声をかけてくださったみなさん、ありがとうございました。

父が名づけた、紫陽花忌。
今年も父の庭の紫陽花がさかりです。

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「母恋い」に始まった母の思い出の記事、
思い出ぽろりのカテゴリを発掘していただければ
私のそんな思い出話がいくつか出てくると思います。
たぶんこれからも時々そんな話を書いていくと思いますが、
いままで読んでくださったみなさんに、ありがとうと、これからもよろしくの気持ちで、ここに。


そしてさいごに、友達のお父さまに、哀悼の意をこめて。
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by kisaragi87 | 2009-06-09 08:17 | 思い出ぽろり